2018年9月30日日曜日

「紫野高校科学部」が霧の研究で成果!

それがなぜ「盆地」にできるのか?
私は京都府亀岡市に現在居住しています
長い教職員生活のために
この地で起こる出来事に関心を持っています
そのなかで「亀岡霧」に関して調査をしたと思い
生徒たちとともに一大研究を始めました
そのきっかけは「京都新聞」に載ったある記事
「紫野高校科学部」が霧の研究で成果!
の記事でした
彼らの研究はとてもアカデミックで
それぞれの研究チームを亀岡盆地の観測ポイントに班ごとにわけて
霧の起こる条件である「気温」「風速」「風向」「時間」について
観測ポイントと霧の発生状況を土日の授業のない日を設定して
秋の時期に合宿観測することを行っています
その観測データで驚いたのは
風速・風向を調べるために
風速0としか測定できない数値を彼らなりの工夫で
「線香の煙」を使って測定しているのです
その成果は私の研究にも大いに役立っています
そして亀岡ではもう一人「霧」の研究をされていた方がおられたのです
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2018年9月29日土曜日

「霧」の正体は「雲」と同じ

話がそれてしまいましたが
「気象学」的には「霧」の正体は「雲」と同じなんです
「雲」ができる原因は温度差で起こる「飽和水蒸気量」の違いで
温かい空気の中には水分は多く含まれるが、
冷たい空気の中では持ちこたえることができない
だから寒い朝には息が白く吐き出る
その現象が自然界では「雲」や「霧」となる
夏の地面は熱く上昇気流で一気に1万メートルの高さに上昇する入道雲は
1000Mで6度も気温が下がると言われているので
とても水分は持ちこたえられません
どんどん雲が視覚で確認できるほど雲が形成されていきます
だから「霧」ができる条件は
夏の暑い時期にはできません
秋から冬にかけての寒い朝
しかも空気がよどむほど風のない時に
だから今の時期にニュースとなるのです
それがなぜ「盆地」にできるのか?

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2018年9月28日金曜日

正木さん清水とおるさん森朗(もりあきら)さん

気象学から先に説明しましょう
お天気情報は各局とも工夫が行われて
朝日放送系では「おは朝」を担当する正木さん
お兄さんのイメージも最近はベテランの雰囲気に…
「キャスト」に登場される清水とおるさんは
短い時間の中でも的確に表現されます
この人は教養があふれるほど豊富でそれを主張しないところがすばらしい!
TBSのお昼の番組「昼おび」を務める森朗(もりあきら)さんは
模型を使って司会者の恵さんとのトークも炸裂してやや競馬予想師になっているよ
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2018年9月27日木曜日

天空の城の正体は?

天空の城の正体は?
この越前大野城や丹波の竹田城などの天空の城と呼ばれるものは
みなこの時期10月から12月までの秋の風物ですが
その理由は「盆地霧」のおかげなのです
「盆地霧」とは盆地特有の「霧」ができる現象で
理科的な「気象」がもたらす現象とともに
私は日本特有の生活・文化が大きく絡んで生まれると思っています
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2018年9月26日水曜日

越前大野の天空の城

越前大野の天空の城
雲海が次第に町を包み込み、
奇跡のように浮かび上がる天空の城 越前大野城
なぜこのような絶景が誕生するのかはあとでお話しします
私は過去に「霧」の研究で詳しいのです
とりあえずこの城の歴史を紹介します
天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。 その恩賞として、大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。翌年、長近は亀山に平山城の城郭と、その東麓に、大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めました江戸時代に入ると、大野は福井藩の一部となり、福井藩主・結城秀康(松平秀康)の有力な家臣・土屋正明が大野城主を務めました。土屋正明は結城秀康の家臣でありながら石高は3万8千石(≒お米で約5700t)で、小藩の大名と同じくらいの領地を持っている優秀な人物でした。

寛永元年(1624)に、結城秀康の子・松平直政が城主となった際には、大野藩の石高は5万石(≒お米で約7500t)に加増されました。松平直政はその後、信濃松本(現在の長野県松本市)で7万石(≒お米で約10500t)、出雲松江(現在の島根県松江市)で18万石(≒お米で約27000t)と領地を加増され移っていきました。
天和2年(1682)に大老・土井利勝の子、土井利房が大野城主となると、幕末まで約180年の間に、土井家から8人が城主となりました。

最後には、明治5年(1872)に入札により本丸が商人など20人以上に払い下げられ、約290年の越前大野城の歴史に幕が下ろされたのです
幕藩体制が崩れると城そのものは厄介なシロモノということになっていますよね
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2018年9月25日火曜日

戦後3番目の規模の震災 福井大震災

福井大地震、1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒に発生し福井県を中心に北陸から北近畿を襲った地震である。福井大地震ともいう。

震源は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃した都市直下型地震。規模はM7.1(Mw 7.0)。

大正関東地震(関東大震災)、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)などと並ぶ、日本の災害史上最悪クラスの震災となった。2015年現在も東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ戦後3番目の規模の震災である。死者の大部分が、当時あわせて人口15万前後にすぎなかった福井市および現在の坂井市、あわら市に集中しており、その被害率は、日本の近代史上でも類をみない。特に現在の坂井市部分では、死者が人口の5%という(同じ際の福井市が1%、後年の大震災時の神戸市が約0.3%)大惨禍となった。
丸岡町にある 丸岡城が倒壊した。
北陸本線細呂木駅と金津駅(現・芦原温泉駅)が倒壊した。また福井県内の同線上の車両も多数が脱線したり転覆する鉄道被害があった。また県内を走る福井鉄道や京福電気鉄道(現在のえちぜん鉄道)も大きな被害を受けた。
地震振動で堤防高も沈下し、その後の九頭竜川決壊につながった。
大和百貨店の福井店が全壊した。
福井の産業の中心であった繊維工業では工場と織機の多数が損壊。また福井市内の織物倉庫は地震直後に発生した火災で三日三晩燃え続けた。
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2018年9月24日月曜日

地元福井県は実なスポーツ県なのだ

福井しあわせ元気国体とは、平成30年に福井県で開催される第73回国民体育大会の大会愛称です。
国体は、国民スポーツの祭典として、昭和21年から毎年開催されており、福井県では、昭和43年に第23回国民体育大会が開催されて以来、50年ぶり、2巡目の開催となります。
各種競技は都道府県対抗で行われ、男女総合成績1位の天皇杯や女子総合成績1位の皇后杯の獲得などをめざし、選手たちは熱い戦いを繰り広げます。
現在福井国体が開催されている
池江璃花子さんの活躍や
高校野球のヒーローたちがドラフト前に勢ぞろいする
話題の豊富な今年の国体だが
地元福井県は実なスポーツ県なのだ
人口は少ないので必然的にスポーツ人口の総数は他県に
かなわないものの生涯スポーツを掲げる
県民のスポーツ愛は身に沁みついている
たとえば高校野球でも名門の敦賀気比高校は有名だが
県大会には公立高校が必ず上位に上がってくる
どの地元にもそういう学校があるからだ
その県で久々に開催される国体に注目してほしい
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2018年9月23日日曜日

九頭竜川は福井県で最も大きい河川

九頭竜川は福井県で最も大きい河川で、2番目に大きい日野川が合流する地点から下流域では中州が無く、開放水面のまま日本海に流れている。河口部にはヨットハーバーも建設されているが、両岸にはヨシが茂り疎らな樹木林もあるが、河川敷の水田・畑が約70%を占める。この農耕地は海抜1mぐらいのため、冬期間は湿田になりガン・ハクチョウ類の採餌・休息場にもなっている。また、冬期間は猛禽類も渡来する。しかし、流域の水田地帯も用水路の暗渠化、乾田化により湿地環境が減少している。
 湿田になっている河口部に近い河川敷の水田では、春秋の渡りの時期には種々のシギ類が羽根を休めており、周辺では貴重な場所となっている。
 流域の水田地帯では、道路・住宅・工場等の進出により、10年前に比してガン類の採餌場が狭められて、採餌集団個体数が大型化している。乾田化や麦・大豆・ソバ等の二毛作、また秋耕による二番穂の減少等がガン類の採餌環境をも狭めている。








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2018年9月22日土曜日

「越の国」で光り輝く米に育ってほしい

当時、農水省で品種となるためには、農林登録するかどうかの審査に掛けられることになっていた。コシヒカリに関しては、倒伏や病気に弱いことから農林登録は難しいという意見もあったという。味よりも、作りやすい品種を求める傾向にあったのだ。
その評価の中で、ホウネンワセは地元の福井をはじめ、石川などで奨励品種として採用され、昭和30年に新品種として登録されて以来、千葉、富山などに順次普及。昭和37年には作付順位1位となっている。
一方、コシヒカリの方は、「栽培法の工夫によって、欠点は克服でき、致命的ではない」という新潟県農事試験場長などの判断などから、新潟と千葉の奨励品種になり、翌31年に農林100号として登録されることになった。
コシヒカリは新潟でその祖先が産声をあげ、福井で育成され、新潟で栽培が始まった。農林登録されると、育成した県の試験場がカタカナ5文字以内の日本語の品種名をつけることができた。
福井県が命名した「コシヒカリ」は、「越前(福井)と越後(新潟)共通の「越の国」で光り輝く米に育ってほしい」という願いが込められたネーミングだったと伝わっている。
 



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2018年9月21日金曜日

コシヒカリは姉妹品種のなかではある意味、劣等生

コシヒカリは姉妹品種のなかではある意味、劣等生だった
農林22号と1号の組み合わせからは、越路早生、ハツニシキ、ホウネンワセ、コシヒカリ、ヤマセニシキという5つの優秀な品種が育成されている。
このうち、越南14号と呼ばれたホウネンワセは、農林1号と同程度の早生種であるが収量性がよく、またいもち病などの耐病性にも優れていたので、作りやすい品種として農家に喜ばれる稲であった。

それに比べ、越南17号と呼ばれたコシヒカリの系統は、味がよいが、病気に弱く倒れやすかったため栽培が難しかった。同じ祖先をもつ5品種の中では、コシヒカリは劣等生だったのだ。
 




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2018年9月20日木曜日

育成の場は福井に移り、奇跡的に生き残った
石墨慶一郎氏


戦後の食糧不足の時代、各農業試験場では、耐病と多収の品種育成をめざす中で、コシヒカリの先祖たちは、まだ注目されることはなかった。
雑種第3世代(F3)65個体のうち20系統が戦後、福井県に新設された福井農事試験場に配布された。そして、その育成の中心となったのが、終戦後に福井県農事試験場に就職した石墨慶一郎だった。
石墨は、根っからの育種家で、仕事場だけでなく、自宅の周りにも水田を整備し、独自に育種作業に没頭したという。
しかし彼のもとで、コシヒカリが順風満帆に育成されていったわけではなかった。
福井県農業試験場に植付け後まもない、昭和28年6月28日、福井大地震が発生。建物は倒壊、用水路は壊滅。試験水田のいたるところが陥没、あるいは噴出する土砂に埋まるという事態に。さらにその後の干ばつで枯れ死した稲も多かった。
しかし、コシヒカリの先祖たちは、強湿田で栽培が行なわれていたため、枯れるのを免れたのである。
「枯れていたら、次の世代がなかったわけですから、コシヒカリが生まれた奇跡の一つと福井県農業試験場では伝わっています」と清水部長は語る。
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2018年9月19日水曜日

しかし、いもち病(主に稲に感染する糸状菌が引き起こす病気)に弱く、また倒伏しやすいという欠陥があったため、昭和16年頃を頂点に、作付面積は下降線をたどっていった。
戦争が激化し、食糧難の時代を迎え、早生・多収を見込めるお米の品種改良(育種)は、国の急務となっていた。新潟県農事試験場では「農林1号を何とか改良したい」と考え、当時としてはいもち病にもっとも強かった農林22号に着目し、これを片親に選び、終戦前の昭和19年に人工交配を行なったのだ。

交配を行なったからといって、すぐに品種が生まれるわけではない。
「品種の育成は交配からスタートし、最初はばらつくものを、選抜を繰り返すことで1つの品種にしていきます」
こう語るのは、福井県農業試験場のポストコシヒカリ開発部の清水豊弘部長。しかも、ほかのものと混ざらないように、一株一株を手で植えて、生育特性を観察。そして手で刈り取るという気の遠くなる作業を行い、選抜していくという。そして、品種が開発されるには、10年以上の年月を擁するという。





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2018年9月18日火曜日

北陸農業の救世主と呼ばれたのが農林1号

話は戦前まで遡る。
今では日本を代表する水田地帯である新潟県など北陸地方は、全水田の6割以上を湿田が占め、裏作物の作付割合が極めて少なく、農家の経営の主体は、稲作に置かれていた。しかし、湿田での稲作は不安定であり、また刈取り期に雨天が多く、乾燥が不十分だったため、軟質米として、取引市場でたえず不利な立場に置かれていたのである。

それを救い、北陸農業の救世主と呼ばれたのが農林1号という品種のお米。湿田地帯向きの早生・多収・良質なお米で、農家経営に著しく貢献したといわれている。当時は、コシヒカリのような存在だったのだ。
農林1号については京都府亀岡市出身で新潟農試・並河成資(なみかわ なりしげ)技師の活躍が有名である。




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